谷本俊介 1982年9月1日生まれ。立川・府中アスレティックFC監督。大阪府豊中市で小学生時代を過ごし、中学入学と同時に父母の故郷である香川県へ引っ越した。実家は電気関係の会社を経営。幼い頃から「将来は後を継げ」と言われ続け、反発しながらも勉強とサッカーに取り組んだ中学、高校時代。大学、大学院で学びエンジニアの道へ。かつて親に反発した日々を思い出しながら、早く親孝行をしたいと感謝をしている。

クールな谷本の表情に隠された、その奥にある感情が勝利を生み出す。

インタビュアーから取材中によく「笑わないんですね」と言われることがある谷本。実は本人もそれを少し気にしているが、半ば仕方がないと諦めている。なぜなら、常に頭の中で色々なことを考えていると、つい視線は一点に集中し、口元も引き締まる。何かを考えだすと笑えない。「笑っている余裕が無いかもしれませんね」と言いながら、そのとき初めて笑顔を見せた。

職員から監督へ異例の抜擢

府中アスレティックFC・トップチームを率いて6シーズン目。2015年にはクラブ創設以来初めてのタイトルをもたらし、プレーオフファイナル進出(年間準優勝)、そして毎年プレーオフ争いをしリーグ上位に安定して位置するクラブに導いた手腕は、クラブ内外でも高く評価されている。しかし、谷本が監督に就任した時、その報せはフットサル界隈に驚きを持って受け入れられた。「谷本って誰だ?」と。
前任監督の伊藤雅範は、選手経験も長くアスレを率いて2年目の2012−13シーズン、過去最高の3位という好成績でリーグを終えており、続投が既定路線であった。しかし伊藤本人から退任の意向を示されたクラブは寝耳に水と、あわてて新監督探しに奔走することになった。Fリーグクラブの監督ができる人材は、どこにでもいるわけではない。経験や知識、カリスマ性、そして何よりJFA公認のフットサル指導者ライセンスが必要だ。「今でこそ笑い話かもしれませんが」と谷本は笑う。
谷本俊介新監督の誕生は、クラブが適任と判断してオファーした複数の人物によい返事をもらえず、時間切れギリギリまで追い込まれた時に、既にライセンスを取得しており、またクラブ内で育成している指導者という理由で会議室で決められらたのだという。それまでの谷本の肩書はヒラの事務局員。育成組織であるサテライトチームの指導はしていたが、どちらかといえばメインの役割はクラブの職員であり、雑用でもなんでもする3年目のスタッフだった。

半導体の研究職から、クラブへの転職

2010年8月に、縁あって府中アスレティックFCの職員となって2年半のあいだ、谷本は寝食を惜しんで働いた。ホームゲームの準備や様々な手配、集客のための活動など、やるべきことはいくらでもあり、どこまでやっても終わりはない。発展途上のFリーグ、しかも人は少ないから時には深夜まで事務所でひとり仕事をする日もある。しかし、何より自分が愛する「フットサル」という競技のために生きていくことの充実感を味わっていた。
そんな谷本の人生を振り返ると、やはり多くの選手と同じく子供の頃からサッカー漬けの日々を過ごし、夢中でボールを蹴っていた。小中そして進学高から高知大学 理学部 数理情報科学科へ進学してもサッカーを続けていた。その後早稲田大学 大学院 情報生産システム研究科で学ぶこととなった時「さすがにサッカーは少し休んで勉強に集中しなければ」と思っていたが、なんと大学院の目の前にフットサルコートがあった。
そのコートは、Fリーグ2部のボルクバレット北九州の前身チームのコートで、時間があればコートに行く毎日。すぐに競技フットサルの魅力にとりつかれた谷本は、チームに入り毎日ボールを蹴るようになるのだった。
その後上京し、新卒入社した半導体会社で研究職に就いても、やはり競技フットサルのチームに所属し、休日はボールを蹴っていたほど。さらには、本人曰く「何事も突き詰めたくなる」という性格のため、大学院生時代にJFAのフットサル指導者ライセンスが整備されたときも、すぐさま講習会に参加し、狭き門を突破し無事にライセンスを取得している。その時の彼にとってのフットサルは、もはや趣味という域ではなく、理論や技術、指導法を学びたかったからだ。

フットサルを仕事にすると決意。

浦安で一人暮らしをしながら半導体の会社に勤務するある日、休日にボールは蹴れるが、やはりもっと「競技」の近くで働きたいという思いが強くなっていった。そのころ、競技フットサルの全国リーグ、Fリーグが始まっていたからだ。そしてFリーグ発足から遅れること2年、一度落選しながらもFリーグ加盟が決まったNPO法人 府中アスレティックフットボールクラブに「転職」することを決めた。そのきっかけは、1年半前のライセンス講習会の講師として参加していた、現GMの中村恭平の誘いがあったからだ。
そこからの日々は、Fリーグに加盟して間もないクラブの裏方として、ホームゲームの準備や公式Webサイトの更新、用具の手配などありとあらゆる「雑用」に奔走していたと言っても過言ではない。当時の事務局員はわずか4名。フットサルのコーチに行く2名が夕方出かけると、ほぼすべての仕事は谷本のもとへ集まる。
しかし、元来の地頭の良さがあるのだろう、効率的に仕事をこなす谷本の事務処理能力や分析力、判断の速さ。そして様々な視点で物事を見ることができる性質に、当時トップチームの監督を務めていた中村は早々と指導者とのしての資質を見出していた。
だからこそ周囲には常識はずれに思われたが、監督経験のない青年が、ある日突然トップチームを率いることになってた時に、クラブの誰もが「あいつなら大丈夫だろう」と思ったのだ。

Fリーグの監督経験がないとは言っても、大学時代は4年次からサッカー部のコーチをしていたし、大学院のある九州で競技フットサルを始めたときも、プレイング・マネージャーとして指導した。サテライトチームでの指導経験もある。練習メニューを考えたり勝つための戦術を創ることは、理数脳の谷本にとっては体を動かすことよりも向いていたのかもしれない。

谷本が心からの笑顔を見せる日がそこに。

谷本は言う。「今は監督という役割を任されているけど、アスレの様々な仕事のひとつ。仮に監督を退任したらまた営業でも広報でも、なんでもやりますよ」と。
谷本がこのクラブに来たころに比べ、組織は大きくなりスタッフも増えた。しかしそれ以上に仕事量も増え、監督になる前の谷本が担当していた様々な仕事を、時間に追われながら必死で取り組むスタッフがいる。
そんなスタッフのがんばりを横目に見ながら、かつて自分も同じ経験をしていたことを思い出し、彼はチームを勝利に導くための「どこまでやっても終わりがない」仕事をする。それが監督という肩書を持つ現在の谷本にとって最大の仕事であり、担当者として責任を負っている。
選手の状況を正確に把握し、練習メニューを考え、実践する。その仮説の証明として試合に挑む。そして試合後は結果を振り返り次の対戦相手の分析をする。やはり「これだけやればいい」という限界はない。緻密で理詰めのスポーツであるフットサル。これらは、学生時代から勉強してきた数学、そして半導体の研究職として働いてきた経験や思考方法が、直接でなくとも活かされているのだろう。

「仕事でも家庭でも社会でも、何でも同じです。練習でも試合でも、あるいは移動中も常に選手のことやファンサポーター、スポンサー、そしてアスレのことを知らない人たちのことを意識しています」。どうすれば選手に伝わるか、試合に勝てるか、お客さんに喜んでもらえるか。それらは全て根っこは同じなのだという。複数の視点で物事を考え、誰にとっても最適な解を導く。だから無表情な谷本が言う言葉は重みがあり、シンプルで誰の心にも素直に入ってくるのだ。
わざとクールに振る舞っているわけではない。しかし時には感情を表すこともある。今日の試合で伸び盛りの若い選手が活躍したときは、とびきりの笑顔で迎えようと。そして勝利してサポーターの前に立つ時も、できるかぎりの笑顔を見せようと思っている。
※記事内におけるチーム名、肩書、数値データなどは取材時のものです。


谷本俊介のTwitterアカウント

TEXT&PHOTO   KEN INOUE  2018.6.14