STORY15. EIKI FUJIIあの日の自分がそうだったように、子供に夢を与え、励まして選手を育てたい。Fリーガー、そして日本代表を育てる。それが今の目標であり、夢。

藤井栄貴 1988年生まれ、鳥取県倉吉市出身。奥山蹴球雑技団でプレーした後、Fリーガーを目指して2014年に上京。選手としてはサテライトで4シーズンプレーし、その後指導者の道へ。昨シーズンよりサテライトB(現 府中アスレティックFCユース)の監督として、若い選手の指導に励む。ホームゲームの実況・解説でも活躍でもおなじみ。最近はアスレOB 梅田翼氏のSIDE VOLLEY JAPANのサポートも。

子供に夢を与え、励まして選手を育てたい。Fリーガー、そして日本代表を育てる。それが今の目標であり、夢。

鳥取県倉吉市。立川や府中から500kmほど離れた人口5万人にも満たない山陰の小さな町で、藤井栄貴は生まれ育った。

放課後いつも遊ぶのは小学校の運動場。同級生だけでなくその兄弟たちも一緒に「今日は野球、明日はサッカー」と、每日泥だらけになって体を動かしていた。

2年生のある日、サッカーをして遊んでいると、誰かのアニキの友達だという高校生が、いつの間にか仲間に入ってボールを蹴っていた。

小学2年生から見れば、高校生なんてもう大人だ。

友達と5人がかりで挑んでも、ヒラヒラとかわされてしまう。

スピードやフィジカルでは格段の差はあるが、それを封印し、幼い少年たちのレベルに合わせて、時には本気で?プレーしてくれる。

悔しいけど面白い。藤井少年はムキになって挑み、軽くかわされていたが、マグレで何度かボールを奪えることもあった。「大人からボールを奪った」という経験は、小学生同士では感じることができない喜びだ。

終わったあと、その高校生が「お前、サッカー上手いな」と声を掛けてきた。ずっと大人に褒められたことが嬉しく、さらに彼が言った「野球よりサッカーやれよ」という言葉に藤井は、興奮した。

1996年ーーー。

まだ日本がワールドカップに出場する前のこと。

山陰の小さな町の片隅での何気ない会話が、彼の人生を変えることになる。

サッカー、そしてフットサルにひたすら打ち込んだ時代

少年は熱心にサッカーに打ち込み、中学高校とプレーに明け暮れる。

高校生になると地元の有名チーム、奥山蹴球雑技団で競技フットサルをプレーするようになっていた。

奥山蹴球雑技団とは、一風変わったチーム名だけでなくプレースタイルや練習方法も独特で「練習はひたすらリフティング、あとは鳥かご。たまにミニゲームするくらいでした」というように個人技で勝利を目指すスタイル。

現代フットサルの緻密な戦術で細かな約束事を積み上げるものとは一線を画すものだ。

足技を鍛え抜いた個人技や、絶対に逃げず下がらないスピリット。全員でボールを回しながら相手ゴールに向かうなど、個性的で独特なプレーには、観客から大きな歓声が上がる。

 

もちろん、技術は勝利のためであり、勝つためにプレーをする。

ひたすらに技術を身に着けた藤井が20歳の頃に出場した全日本フットサル選手権中国大会。

少数精鋭で勝ち進み決勝戦まで戦うことができた大会だった。

決勝戦の相手は、現在F2リーグに所属する広島エフドゥ。ベンチ入りフィールドプレーヤーわずか5名で臨んだこの試合は4-22と大差で敗れている。

どんなに点差が離れても決して自分たちのスタイルを崩さず、ひたすらに自分たちの戦い方を貫き通した。

「あの試合のあと、奥山さん(チーム代表)によくやったと褒めてもらったんですけど、そんなことは最初で最後かもしれません。本当に厳しい方でしたがとてもたくさんのことを教えてもらいました」。

藤井はもっと上手くなりたいと、上京を考えるようになった。

 

続々とFリーガーを輩出する奥山蹴球雑技団

小学2年生のあの日、藤井に「お前上手いな、サッカーやれよ」と勧めたテクニシャンの高校生の名は完山徹一。

その後日本フットサルの黎明期に奥山蹴球雑技団で名を馳せ、2005年より府中アスレティックFCで関東リーグを戦い、競技フットサルの世界では知らぬ人がいない存在になっていた。

2007年に開幕したFリーグでは名古屋オーシャンズの赤いユニフォームに身を包み、いくつものタイトルを獲得。その後も第一線で活躍し続けている。

卓越した技術とアイデアをもつ完山は、藤井にとっては幼い頃からの憧れ。いつまでも大きな目標であり、誇るべき大先輩だ。

その他にも、フウガドールすみだの背番号1、ゴレイロ大黒章太郎選手、そして2010年からアスレでFリーグを戦った河原優も、奥山蹴球雑技団出身で同郷の先輩。

子供の頃から知る大先輩が、日本トップの舞台でプレーをしているのだ。自分もいつかはあのステージに立ちたい。そう思うのは当然のこと。

上京した藤井は、先輩の伝を頼り府中アスレティックFCサテライトの練習に参加しFリーガーを目指すこととなった。

サテライトでの日々、そして感じた選手としての限界

地元を離れての新生活はすべてが刺激的だった。

お金も無かったので寝る間を惜しんで早朝から働き、21時から23時までチーム練習。努力の甲斐あって一年目にしては出場機会も多く「やっていけるかも」という自信も芽生えてきた。

しかし、トップチームとの練習試合ではまるで相手にならず、まだまだ実力不足を痛感したこともあったという。

サテライト2年目の2015シーズンは現トップチーム監督の山田マルコス勇慈が監督となり、森拓郎、日永田祐作といった経験豊富な選手や、丸山将輝(現ボアルース長野)、水田貴明(現シュライカー大阪)などの若い顔ぶれが融合しチームの戦績は上昇していった。

「あの頃のサテライトのメンバーは、ほとんどみんなFの舞台に立てました。今は若い子が多いけど、あの頃は平均年齢も高く、ギラギラしていて個性的なメンバーが多かったですね」

チームメイトだからこそ負けたくない。いつも真剣勝負。熱くなりすぎて喧嘩になることもあったというが、3年目には全日本フットサル選手権で勝ち上がり、関東大会で準優勝。ついに全国の舞台に立つこともできた。

選手からスタッフ、そして指導者の道へ。

躍進するサテライトチームで藤井は着実に結果を残してはいたものの、トップチームのポジション争いができるとかといえば、それは別物。

当時のアスレのPIVO勢といえば、レジェンドである小山剛史、日本代表経験も豊富な渡邉 知晃、ベテランの上福元俊哉、三井健というそうそうたるメンバーが揃っていた。

そこに割って入るのは容易ではなく、シーズン終了後の面談で「昇格」という言葉を聞くことはできなかった。

2017年からはメンバーが大幅に入れ替わり、競技フットサルを離れた森拓郎の代わりにコーチ兼任という立場で引き続きサテライトに所属。年齢的にもそんな年になっていた。

そして2018年、30歳という年齢が近づき「一度はFの舞台で選手として戦ってみたい」という思いから、藤井はあるF2クラブへ移籍をほぼ決めていた。

しかし、今の仕事や住まいをそのままに移籍するには無理があり、どう調整しても仕事や生活に支障をきたす。
悩んだ末に、そのクラブには断りを入れ、アスレの選手ではなく「スタッフ」としてFリーグを戦うことを決めた。

Fリーグの試合に帯同し、日々トップチームの選手と一緒に練習をした。そのシーズン、トップチームはFリーグを3位で終え、プレーオフ出場。さらに全日本フットサル選手権では決勝まで勝ち進み、藤井もトップチームスタッフとして満足のいくシーズンとなった。

レジェンドたちに引導を渡す、そんな選手を育てたい。

今シーズンは、引き続き府中アスレティックFCユースの監督をメインに、指導者として将来のFリーガー、サッカー選手を育てるために活動している。

濃過ぎるくらい個性的なメンバーで戦った数年前のサテライトを思えば、今の若い選手はクールだ。

トップリーグで戦うことが絶対的な目標ではないと公言する選手もいる。

しかし、指導者としての藤井は「Fリーグクラブの下部組織である以上、トップ昇格、Fリーグ出場にこだわっているし、選手にもそこを目指す意識統一を呼びかけています」という。

今シーズンのアスレトップチームには、あのころ藤井とともにサテライトで戦った選手も多い。新井裕生、内田隼太、上林快人、山田正剛がいる。また、サテライト所属だが特別指定でトップチームに参加する金澤空、高瀬剛、青大祐もいる。

完山徹一、田中俊則、皆本晃、渡邉知晃などベテランは健在だが、彼らを脅かす若くて経験豊富、たくましい選手が揃っている。

マルコスサテライト2年目、3年目に若手とベテランが激しくポジションを争ってチーム力を向上し、成績を上げたように、マルコス体制2年目、今季のアスレトップチームも期待ができる。

 

だから藤井は、府中アスレティックFCユースチームの監督として、完山徹一のポジションを脅かすような選手を育てる。

それが今の藤井の使命であり、先輩への恩返しだと思っている。

「近い将来、自分が携わった選手がFのリーグデビューしたり、日本代表になったら嬉しくて泣いてしまうと思います」。

そして、一日も早くこの目標も叶えたい。

 

※記事内における組織名、肩書、数値データなどは取材時のものです。


藤井栄貴のTwitterアカウント

TEXT&PHOTO KEN INOUE 2020.08.27