酒井遼太郎  2016年、エスポラーダ北海道でFリーグデビュー。翌年キャプテンに就任。そして今シーズンより立川・府中アスレティックFCに加入。1991年千葉生まれ。子供の頃からやたらと社交的。従兄弟や近所の子供達、そして姉と妹の3人姉弟で賑やかに育った。ひたすら走り続ける驚異的な持久力は、子供の頃に通ったスイミングスクールが育んでくれた。千葉から北海道の高校へ進学し、この春10年過ごした北海道から関東に帰ってきた。「(北海道に比べて)府中は暑いです!」とのこと。

人の縁だけでここまで来た、という謙虚さと、それを全く体現していない「がむしゃら」に走り続ける酒井のフットサル。

あなたはどんな選手を応援したいですか?。頼りになる点取り屋、鮮やかなテクニシャン、もちろんイケメンも。立川・府中アスレティックFCにも色々なタイプの選手がいるが、個性が際立つ選手はやはり目に付きやすく、応援したくなる。
今シーズン、エスポラーダ北海道から新たに加入した酒井遼太郎に「どんなタイプ」かと聞くと即答で「がむしゃらです」と即答する。
とにかく酒井は走り、走り、走る。
「Fリーグデビュー戦で、とにかく走り回る自分のプレーを見てファンになってくれた方がいて、がむしゃらなところが好きだと言ってもらえた事がすごく嬉しかったですよ!」と大きな声で笑う。考え抜いて行動・発言するタイプではなく「本能で動く」タイプなのだろう。そして自然に周りを元気にさせるタイプだ。酒井が話すと周囲に笑顔が広がる。

酒井は1991年に千葉に生まれ、3歳のころからボールを蹴って遊んだ。少年時代はJリーグ隆盛の時代だ。ドーハの悲劇は知らない。ワールドカップフランス大会に出場する日本代表の試合を、食い入るようにテレビで見て、翌日グラウンドを駆けまわる。酒井もそんなひとりだった。決して足は速くはなかったが、試合終了までひたすら走り続けるスタミナが特長で、中学生になっても当然サッカーを続けていた。
勉強は好きでは無かったから、ひたすらサッカーに明け暮れていたが、3年になり進路を決めなければならない時期が来て、さぁどうしようかと悩んだ。そこで酒井は、高校サッカー界に顔が広く今では恩師となったコーチに相談すると、コーチは酒井のために親身になって特待生として入学できる高校を探してくれた。よほど熱心に薦めてくれたのだろう、酒井のプレーを一度も見たこともないのに、ある高校の監督がわざわざ千葉まで会いに来てくれた。

中学卒業と同時に北海道へ。

その高校は北海道の「帯広北高校」。選手権、インターハイ出場経験のある強豪校だ。サッカーで高校に行けるなら、そして恩師の期待に応えたいと、酒井は北海道へ行くことを決めた。
一度決めたら突き進むタイプ。しかし、生まれ育った親元を離れて北海道に行くことに不安はなかったのだろうか。聞いてみると即答で「まったく無かったです。でも母は泣いてましたけど」と笑う。
当然だろう。姉と妹に挟まれた唯一の男の子である息子が、わずか15歳で家を出て遠い北海道で寮暮らしをするなんて、数日前までは考えたこともなかったはずだ。しかし酒井少年は家族と離れて進学することを選び、北へと渡った。

千葉から北海道へ。そこでも走り続けた。

親元を遠く離れてスタートした北海道での高校生活。酒井は「寂しくなかった」という。なぜなら、親元を離れてまで大好きなサッカーに打ち込む同年代の仲間たちと寝食をともにし、語り合える環境。サッカー少年の心を持ったまま成長した酒井の毎日は、全てが刺激的。もちろん家族のことを思い出す夜もあったが、それを忘れるくらい充実した高校生活のスタートだった。

そんな酒井は特待生ではあるものの、特に中学時代から名を馳せた選手では無かったため、もちろん初めはCチームからのスタート。しかし入部間もないある日、その後の毎日を大きく変化させるチャンスが突然訪れた。それは持久走のタイム計測。
全部員がグラウンドを黙々と走る。もちろんこの成績が何らかの評価に使われることを理解しているから、みんな必死だ。トレーニングを積んだ3年生を先頭に、ほぼ学年順に順位が並んでいたが、1年生の酒井だけは違った。終始トップの先輩に食らいつき、そして最終周では鬼の形相で走り先輩を抜き去って、見事にトップでゴールしたのだ。

負けず嫌いな性格と、持久力。

誰あいつ?
千葉県からやってきた無名の一年生が優勝。突如あらわれたダークホースに上級生は騒然となった。

そう、人気サッカー漫画のジャイアント・キリングをご存知な方はよくおわかりだろうが、あれと同じだ。物語の序盤、ETUの監督に就任した達海猛がまずやったのは、選手を繰り返し走らせタイムを記録すること。そして皆がバテる後半でもタイムが落ちなかった新人の椿大介を、突然レギュラーに抜擢したストーリー。
ゲーム後半でも走れる選手は誰か?
監督は、酒井のいつまでもスピードが落ちずに走り続けられる能力に着目し、翌日からAチームに抜擢した。
持久力はあるが決して足の速くない酒井がレギュラーになるためにはと、後にフットサルでも大きな武器となる「初速の速さ」が身に付きだしたのもこの頃だ。

フットサルでは「スピードのある選手」としてのイメージがあるが、酒井は子供のころから運動会のリレーとは無縁で、今でもトップスピードは速くないという。しかし「練習で動き出しは早くできる」と、中学時代にコーチの勧めで陸上部の練習に参加し、走行技術を学ぶなど努力を重ね、初速の速さを磨いていった。スタートダッシュが身につき、元来の持久力とあわせてレギュラーとして活躍する武器となったのだ。

大学で活躍したが、スクールへ就職

進学は引き続き北海道に残り札幌大学へ。3年生の全日本大学サッカー選手権では初戦で2得点をあげYahoo!ニュースにその活躍が掲載されるという経験をして、なかなか千葉に帰ってこないと嘆く母親を大喜びさせた。

しかしそんな酒井はまた悩むことになる。そう、大学卒業後の将来をどうするかだ。自分はどうやらプロサッカー選手としてJリーグで活躍するレベルでは無いと思っていたし、サッカー選手以外でどんな仕事に就きたいかを考えた時、サッカーと同じくらい「子供が大好き」な自分を再認識した。「そういえば子供の頃から子供が好きだった」と、サッカーと子供が好きだから「子供にサッカーを教える仕事をしよう」。単純だがもっとも幸せな選択。そうして大学卒業後、サッカースクールのコーチとして就職した。

就職して1年後、フットサルとの出会い。

スクールコーチとしての仕事は忙しく、サッカーをプレイする事はまったくなかった1年間。ある日、先輩がフットサルをしようと誘ってきた。もちろんフットサルは知っているが、ミニサッカーという認識でしか無かった。でも帯広北高校で同級生だった関口優志(日本代表GK、エスポラーダ北海道〜名古屋オーシャンズ)がエスポラーダ北海道でフットサルをしていることは知っていた。

サッカー経験は長いから俺にもできるだろう、そう思っていざプレイしてみると、フットサルという競技をする上での短所と長所がすぐにわかった。「生まれつき負けず嫌い」だという酒井はすぐに競技フットサルに熱中しはじめた。Safilvaというチームに入ってプレーするようになると貪欲に技術を吸収し、サッカーとは似て非なるフットサルの動きを身に着けて、急速に成長した。

そしてわずかフットサル経験1年ながら、Fリーグ エスポラーダ北海道のセレクションに合格。1年目から14ゴールをあげる活躍を見せ、2年目にはキャプテンに就任。中心選手としてプレイした。

伸び悩み、そして立川・府中への移籍

しかし同時に伸び悩みを感じていた。フットサル経験1年でFリーグの舞台に立ち、すぐに多くの得点を重ねられたのは「フットサル選手なら当然の常識が、自分には全く無かったから」だという。例えば、2016年7月24日の府中戦、酒井はこの試合で府中に先制されるもすぐさま同点に追いつくゴールを決めている。
このゴールこそ、フットサル選手の常識が無かったからこそできたものだと。対戦した皆本晃が「ここにはいないだろう、行ってはいけない場所に何故か誰かが来た」というくらい、非常識な動きだから得点できたものだ。しかし、その運動量とフットサルの常識から外れたプレーだけでは頭打ちを感じ、その結果2年目の昨シーズンは1年目より得点数を落としている。

今よりもっと上手くなりたい、どうすればいいのか?そう思っていた矢先、思いがけない報せがきた。府中アスレティックFCからのオファーであった。

「正直、北海道を離れていいのか悩みました。2年目でキャプテンにしてもらったのにリーグでは10位と結果を残せなかったし、自分の得点数も減った。それに高1から10年過ごした北海道はほんとうに第二の故郷と思っていますから」。
しかし酒井は悩んだ末に移籍を決断した。府中からのオファーでなければ断っていただろう。もっともっと上手くなりたい、そう思う酒井にとって、オファーをくれた府中というクラブは日本代表クラスの選手が複数在籍し、ひとりのフットサル選手として「自分が目指すべきなのはこの人のプレーだ」と思っていた皆本晃がいるからだ。

北海道で育ててくれた監督やスタッフ、チームメイト、先輩達。そして応援してくれたファンに申し訳ないという気持ちも当然あるが「自分が新しい環境でもっと上手くなりたい」という思いの方が勝っていた。
しかしその決断をするまでには、長い時間が必要だった。
10年前、中学生の頃に千葉から北海道へ行くと決めた日とは違って。

はじめての代表候補合宿

立川・府中アスレティックFCに移籍した直後、初めてフットサル日本代表候補合宿へと呼ばれた。日の丸を付けてプレイすることを目標としていただけに嬉しかった。しかしそこで感じたのは「大人と子供くらい差がありました」という現実だ。しかし負けず嫌いで前向きな酒井は、盗めるものは盗む。差を埋めるための努力をする。そして自分の長所を更に伸ばして行こうと決意を新たにした。
監督の谷本からは「今までのアスレのチームカラーにない選手。新しい風を吹き込んでほしい」と言われた。
そのカラーとは、中学生のころ応援してくれたコーチ、高校で抜擢してくれた監督。大学の監督、北海道の監督やスタッフなど数多くの人がつくってくれた酒井遼太郎の動き、カラーだ。だからこのスタイルでもっと上手くなって自分をつくってくれた人たちに恩返しをしたいと思っている。

そして10年前、北海道の高校に進学することを決めて母親を泣かせてしまったが、これからもっと喜ばせたい。今の自分があるのは高校生の頃、持久走の結果で抜擢されたからだ。

そしてその持久力は、幼い頃に身体が弱くアトピーや喘息などで苦しむ自分のために、水泳やスポーツで体力を付けさせようとしてくれた身についた。そうしてくれた母親のおかげだと思うから。立川での試合なら、実家からも近いので見てもらえることだろう。多くのへ人の感謝を胸に、酒井とアスレの新しいシーズンが始まった。
※記事内におけるチーム名、肩書、数値データなどは取材時のものです。

酒井遼太郎のTwitterアカウント

TEXT&PHOTO   KEN INOUE  2018.6.15