皆本晃 1987年生まれ。千葉県松戸市で育った。ビッグマウス、有言実行、世界のMINAMOTOなど数々の異名がある。妹は女優の皆本麻帆。幼い頃から子役としてミュージカルに出演し、現在も舞台で活躍中。そんな妹と比較されたサッカー少年時代は「あの麻帆ちゃんの、お兄ちゃん」と呼ばれていた。アスレ初のプロ契約選手として名実ともにチームの顔であり、身長168cmながらも若手の壁として圧倒的な存在感で立ちはだかる。

決して順風満帆ではなかったが、見えないものに導かれてここまで来た。

絶頂からどん底へ。世の中には自分の思いと裏腹に、なぜか全く違う方向へ進んでいくことがある。山あり谷あり、皆本晃の人生は幼い頃からそれの繰り返しだ。しかしその度に這い上がり、苦しみながらも成功を掴んできた。
「努力の賜物ですね?」苦労話になるだろうと話を向けると「いや、別に。なぜかわからないけど、いつの間にかそうなってました」と笑うから話が面白くならない。
チームで最も身長は低いが、絶大な存在感をもつキャプテンは「自分が思い描いた未来へしか行けない」ことがわかっている。努力の賜物ではなく、上昇志向の賜物だ。だから常にポジティブに考えるし、その結果ビッグマウスにもなる。

世界のMINAMOTOになるまで。

2005年 府中アスレティックFCの下部組織に入団し、ほどなくトップチームへ昇格。
その後Fリーグに一試合も出場していないのにフットサル日本代表へ招集される。
Fリーグで実績を残すとスペイン一部リーグへ移籍。その後府中へ復帰し、初タイトル獲得に貢献。
フットサル日本代表にもコンスタントに選出され、2018年AFCフットサル選手権ではキャプテンとして戦った。
こう書けば彼が残してきた実績は、実に素晴らしいものだ。サッカーで例えれば本田圭佑といえば言いすぎかもしれないが、それに近いインパクトはあるだろう。
ただ、皆本の人生を振り返れば輝かしい実績と同じ数だけの苦難があった。
小学校1年生の時にJリーグが開幕した。憧れたのはもちろん、キング・カズだった。いつも仲間とボールを蹴り、将来の夢はもちろん「サッカー選手」。好きだから上手くなる。いつしか「皆本っていう上手い子がいる」と有名になりつつあった。
はじめの挫折は中学生の頃だろう。入学当時の身長は140cm。まわりの友達はぐんぐん身長が伸びるのに、自分は伸びない。成長期は残酷だ。成長の早い遅いが顕著に運動能力に現れる。足の長さ、体格、その差が開くとともにテクニックがフィジカルに勝てなくなり、ピッチの王様だった皆本少年は輝きを失っていく。すると、サッカーを楽しめなくなり、キングになりたいという熱が、いつのまにか冷めていった。
「サッカー以外に興味を持てるものがなくて、不良になろうかなと思ったけど、不良にもなれなくて、やっぱりサッカーが好きだったから部活に戻りました」。その後、徐々にではあるが身長が伸び始めると、ふたたびサッカーに熱中して取り組んだ。高校は幕張総合高校へ進学。学年に80人も部員がいる大所帯だったが「それなりの活躍ができる」というレベルで、キングではなかった。そのため、高校3年生の頃にはもはや「プロサッカー選手になる」という目標は皆本の頭から消えつつあった。

俺のほうがやれる。そう思ったフットサル日本代表戦。

そんなある日のこと、高校の近くでやるからと、友だちがフットサル日本代表の試合に行こうと誘ってきた。競技フットサルを見るのは初めてのことだった。
2004年11月13日。国内ではじめて開催されたフットサル日本代表の試合が「幕張メッセ」に大観衆を集めて華々しく開催された。当時の日本代表メンバーは「木暮賢一郎、鈴村拓也、高橋健介」など現在は指導者として活躍してる面々で、フットサルの一時代を築き上げた功労者ばかり。
アルゼンチン代表に1-2で敗れた試合を見て皆本は何を思ったかというと「これなら俺のほうがやれるんじゃないか」。

どこまでもポジティブである。

なぜそう思ったか。フットサルは、サッカーと違い狭いスペースでの攻防の連続だ。11人対11人で広いピッチを大きく使うサッカーとは、全く違う競技だと感じた。しかし、サッカー部の練習は基本的に省スペース・少人数で行う。
サッカー部でキングになれなかったが、実は皆本、練習ではしばしばエース級の活躍をみせていた。狭いコートで行う5対5などの練習では、皆本の運動量やスピード、テクニックが活きて活躍できるという不思議があった。

「練習と同じだ。これなら俺のほうができる」そう確信した皆本は、目標を「プロサッカー選手」から「プロフットサル選手」に変えた。まだ日本にFリーグができる3年前のことだったが、インターネットで調べると、どうやらスペインではFCバルセロナやインテルという有力チームがあり、世界から一流のフットサル選手が集いプロ選手が活躍しているらしい。すぐに皆本は「スペインでプロのフットサル選手になる」という新たな目標に向けて動き出した。

世界へ向かっての一歩、アスレとの出会い。

18歳になった皆本は、当時関東リーグに所属していた府中アスレティックFCのセレクションを受けて合格する。なぜアスレを選んだのかを聞くと「大学から近かったので」というが、もちろん他にも理由がある。アスレはその頃から将来の全国リーグ参入に向けていち早く法人化をし、選手兼監督ではなく専任監督が指揮を執るなど実力はもちろん運営面でも先駆けていた。そして、日本一を争える実力ある選手が集まっていた。レベルの高いチームでやりたい。スペインでプロ選手になるためには、レベルの高い環境で経験を積む必要があり、それが近道だと考えたからだ。
しかし、高卒でフットサルを始めたばかりの皆本の出場機会は無い。クラブがFリーグ参入に向けて着々と準備を進めて行く中、試合に出られない皆本のフラストレーションは溜まっていた。「選手権でもメンバー外。俺の方ができると思っていたけど、役割はビデオ係でした」という皆本だが、この時のアスレで主力選手になれなかったことが、後の人生を変えることになる。

2006年11月に、翌年から始まる全国リーグ「F.LEAGUE」の加盟チームや詳細が発表されたのだが、そこに府中アスレティックFCの名前はなかった。実績や運営面でも日本のフットサル界のトップを走っていたかと思われた府中だったが、ホームアリーナである府中市立総合体育館のキャパシティが規定を満たさず、まさかの落選となってしまった。
そしてFリーグ開幕を前に、全国リーグでプレイするために集まっていた一流選手たちは、それぞれFリーグ参入が決まった他クラブから引き抜かれていった。

2007年のアスレは、皆本同様に引き抜きを受けなかった数名のメンバーと新加入選手で関東リーグで戦うことになった。当時の皆本は20歳。他のチームを見ても同年代で主力として長時間試合に出ている選手はほぼいない。主力選手の大量流出で出場機会が増えただけではなく、自分が主力として戦うこととなった。
「自分がプロになるためのステップとして府中に入りましたが、状況が一変してしまいました。これはマズイことになった、何が何でもこのクラブを守らなければならない。でも前向きに考えれば試合に出られることで、一気に成長できるチャンスが来たと思いました」。
初年度は落選したものの、クラブ事務局は近い将来のFリーグ参入に向けて必死に動いていた。

仮に体育館や運営面などの条件がクリアになったとしても、チームとしてFリーグで戦える実力が無ければ参入は認められないだろう。そのためには先人たちが築き上げてきたこのクラブを守る。経験や実績が無い選手ばかりだが、Fリーグに入るためには勝たなければならない。
そんな、自分のためではあるがクラブのため、先輩のためにと必死の思いで練習し、長い時間プレイすることで皆本の経験値はあがりどんどん技術も上達していった。

そして2009年より、府中アスレティックFCはFリーグ参入を認められ、皆本もFリーグという檜舞台に立つことになった。この年皆本は全国的な知名度はまだ無かったものの、そのセンスを認められ年代別の日本代表にも初招集されている。

「そしてスペインへ」。

クラブの夢は果たしたから自分の夢も叶えたい。皆本はFリーグに出場しながらもスペインでプレイする道を模索していた。
行きたい、ではなく必ず行くと決めていたから。2012年、練習参加の末についにスペイン一部リーグ所属のプエルトジャーノへ移籍することとなった。幕張メッセでフットサルを見てから8年後のことだ。
待っていてもやってこない。自分で動き回って掴んだチャンスだった。

その後皆本は2013年に府中に復帰し、2015-16シーズンにはキャプテンに就任。そしてアスレ初のプロ契約選手として活動している。そのシーズンにはクラブ創設はじめてのタイトルを獲得、オーシャンカップ決勝で名古屋オーシャンズに勝利。見事優勝した。
かと思えば同年10月に、全治八ヶ月の大怪我を負い、長期間戦列を離れることになるなど浮き沈み激しいシーズンだった。皆本がプレイしないチームはFリーグプレーオフファイナル進出を果たしたものの、決勝では名古屋に敗れている。また2016年2月にフットサル日本代表は、ワールドカップ出場を逃している。もちろん、怪我のため皆本は招集されなかった。

アリーナを失うという悲しみと、新アリーナ誕生の幸運。

昨年クラブは府中市立総合体育館のキャパシティが問題で、ホームアリーナを失い、また2年連続して出場していたプレーオフ進出を逃した。しかし、府中市から近い立川市に新しく「アリーナ立川立飛」が建設されることになり、奇跡的な縁と偶然か、失ったホームアリーナを手に入れることができた。規定に合うアリーナが見つからなければ、Fリーグで戦うことは認められない。10年前のFリーグ落選以来、チーム最大の危機だった。

そのことすらも皆本は、ポジティブに捉える。

「府中市立総合体育館が使えなくなったことは本当に残念でした。自分はあの体育館で育ててもらったし、あのサイズだから盛り上がったというのもあります。でも決まった以上は仕方がないと切り替えました。Fリーグという興行を考えた時に、府中市立総合体育館の収容人数では限界があったのも事実です。選手がいくらいいプレイをして、たくさんのお客さんに見てもらいたくても、1,500人で満員のハコでは限界がある。もっと自分たちが上のステージに行くためには、たくさんお客さんが入れる会場が必要だったし、これからはアリーナ立川立飛を満員するために努力しよう、と選手としては切り替えました」という。

2018-19シーズン、チーム名も立川・府中アスレティックFCとして、新たにアリーナ立川立飛をホームとして活動する。チームもサテライトから複数選手が昇格し、若くて才能のある選手も移籍してきた。

スペインのような熱狂するアリーナに。

皆本は思う。スペインでプレーしていた時に感じた熱狂とあたたかさ、あの雰囲気をアリーナ立川立飛で実現したい。
地域にフットサルが根付いているスペインでは、街全体がクラブを応援してくれた。家族3世代で声援を送る。地域に見守られて若い選手が育ち、活躍する。
「スペインはフットサルが文化になってました。サッカーも好きだけどフットサルが好き。僕がいたクラブのある小さな街では、子供から大人までみんなが自分たちを応援してくれていました」。そんな皆本の新たな夢を叶えるために、自分は若い選手の壁になる、という。

「今はキャプテンとして、若い選手を育てる。かつての自分の前に立ちはだかったくれた選手。クラブだと上澤さん、日本代表だと木暮さんの様な存在になっていきたいですね」。21歳の若さで主力として活躍する内田や上村を皆本はとても期待している。そのためには「自分がもっと上手くなって内田や上村が簡単に超えられないように大きな壁になりますよ」と笑う。
新生、立川・府中アスレティックFCがより発展し輝くためには、身長は低いが、とてつもなく大きな壁になる皆本晃の力が必要だ。その覚悟を皆本は決めているし、すでになっている。あとは超えられるのを待つだけだ。そう簡単には超えさせないだろうが。
※記事内におけるチーム名、肩書、数値データなどは取材時のものです。

皆本晃のTwitterアカウント

TEXT&PHOTO   KEN INOUE  2018.6.15